どうしようもなく、自分は何かが欠陥だ、という意識

どうしようもない欠陥の意識

かわいくない、かわいくない、私はかわいくない、口を開けば「私は特別」「あなたにはわからない」と「自慢」しているように聞こえてしまう。いない方がいい。的な意識から逃れられない。そのくせ無知で。当たり前のことを知らない、遊びができない。決定的に何かが足りない、という欠陥の意識。

どうしてこうも、うまく遊べないのだろう、なぜ?適切な動き、言葉、そういうものを探り探り繰り出しては、不安になり。そういう風にしていると、きちんとものごとを感じたいのに、余裕がなくて、現実感もなくなって、ひとなみをかき分けて誰ともぶつからないように歩くだけで精一杯。

 

なんだか疲労しています。

自分のどうしても掴めないなにか、何かが欠陥している意識。

中学生くらいからです。

どうもおかしい、自分はみんながわかっていること、しっていることを知らない、できない。

適切な動きをうまく制御できない、言動できない。

うまくやろうとすると、人波をかきわけるのでいっぱいいっぱいで、まったくもって、それだけ。

自分をさしはさむ余裕がない(いや、そんなもの、私にはなさそうなのだけれど。)

なにせ、私は、いつも、荒れ狂う砂嵐の中を、砂の人形が歩いているような感覚です。

 

思い切ることも、守りきることも、うまくできない。

 

生きることはどうしてこうも面倒なのだろう、ひまつぶしで、自然でなくて、単なるエラーが起きているだけの生(生きている、なんていう状態は、安定性を欠く。いっときのエラーでしかない。)。それなのにどうしてこんなに必死に空回りしてしまうのだろう。

 

もう全然わからない。

 

関連

 

morikanoko.hatenablog.com

 

morikanoko.hatenablog.com

 

 

しあわせになるということ、についてのうんざりするであろう話

しあわせになる権利と可能性が我々すべてのひとにある。

 

しあわせになるための能力はひとによって異なるし、表出も異なるし、しあわせのかたちも違う。一見そうは見えないようすでも、しあわせになる、せめて、世界と折り合いをつけて生きてゆく、そういう方策を、ひとはとっていると思っている。そのよしあしの評価ではなく、諦めるのも、憎むのも、苦しむのも、攻撃するのも、そういったものすべて、である。

 

そして、我々すべての社会は、我々すべてのひとをしあわせにする、そのための、土台(つまりはお金とか、資源とか、ひととか、そういうものもの)を整える義務がある。

 

現実はどうあれ、そういう義務がある。

 

これは、ライフハックのような技術の話ではない。

これは、全ての人間が輝くという話でもない。

 

 

障害のあるなしにかかわらない。

障害の重さにかかわらない。

 

たとえば、「表出をみるに、重い障害があり、生きているだけで本人も周囲も苦痛」「犯罪を起こさせないだけで精一杯」”のように見える”としたら。

 

「現実」「現実」「現実」!

「これが現実」!

だから、それはそれ?

 

これは「ライフハック」などの話ではない、お金の話でもない、しあわせになることの話である。

 

「苦痛に見える」だけかもしれない。理由があるかもしれない。

困っているのなら、困らないように、理由があるのなら、ほぐして、それが周囲・法とぶつからないように、調整をし、社会を整えなくてはならない、のである。

 

しあわせになることの話において、ひととひととのあいだに線引きはできない。してはならない。

 

 

「しあわせになれる」とわたしは言わない。

ひとによって、しあわせが異なる、状態像が異なるから。

しかし、「しあわせになる権利と可能性がある」と言う。

そして、できるできない、いますぐ将来的に、そういう部分は、正直、困ってしまうのだけれど…、やっぱり、我々すべての社会は我々すべてのひとりひとりを、しあわせにする、認め合いともに生きる環境を提供する義務がある、と思う。

 

 

これは理想で、希望で、意地で、ただの影響された怒りで、衝動で、ひどく意地悪な攻撃で、気持ちの悪いロマンチスト、ナルシストかもしれない。

でも、どうしようもなく、いま未熟でも、きちんと言葉にしようと思った。

もうそれはうんざり、というひとがたくさんいると思う。申し訳なく思う。

 

いろいろなやりかたでしあわせになろうね。

過ぎてゆく時間に、あなたのしあわせが間に合いますよう。わたしのしあわせが間に合いますよう。未来の子らのしあわせが間に合いますよう。

 

この祈りを。石を、私は投げるよ。

 

 

※関連記事

morikanoko.hatenablog.com

 

どもる体

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

やっと読み終わりましたので、書きます。

とても面白かったです!

きっかけ

フォロワーさんがつぶやいている『どもる体』の内容の一部を読んで共感して、こんなことをつぶやきました。記憶は薄いけれどおそらくテーマは「うまく話せない」的なもの。

すると、「台本から〜」のツイートの内容がそのまま『どもる体』に書いてあるよ!と教えてもらいました。

すごい!それは読もう!ということで読みました。

 

私はどもる自覚はありませんが、「言葉が出ない」「うまく話せない」「話しきれない」「言葉がこぼれおちる」「言葉にするとこぼれおちる」というような不全感を抱えている自覚があります。また、その他身体と頭のつながりの悪さ、エラーの自覚もありますので、この本は面白く読めるのではないか、と思いました。

 

対処と症状がくるくる

吃音ではどうやら「症状」とされているものが、別の症状への「対処」であり、かつまたそれが症状である、というようなふうになっている、ということが書かれていました。

また、対処することで見せかけの症状そのものは「よくなる」とみえて、本人には「がんばってそうしている」という苦しさや「本当の自分ではない」ような不全感が残る、とのこと。

しかし、そうしたすべてのゆらぎをひっくるめて、そうした自己のあり方でもある、ということ。選択肢をつくるということ。依存先を増やすということ。自分の体のコントロールについて、乗っ取られつつ、コントロールするように、揺らぎながら常にバランスを探り探り生きてゆくということ。

 

そんなようなことを読みました。

これもまた、まったくうまく言葉にできていない、と思います。

ぜひ実際に読んでみてください。

 

私における発達障害とのつながり

上記について、わたしはとても共感しました。

わたしは吃音の自覚はないですが、先にあげたように、

 「言葉が出ない」「うまく話せない」「話しきれない」「言葉がこぼれおちる」「言葉にするとこぼれおちる」というような不全感を抱えている自覚があります。また、その他身体と頭のつながりの悪さ、エラーの自覚もあります

というふうな自分です。

そしてこれは、わたしの発達特性とかかわりがあると思っています(実際のところはわかりません)。

 

そういうふうな自分としてこれを読み、共感しました。

 

私にとってロッキング(からだをゆらゆらさせること)したり、わーっと声をあげたりすること、コミュニケーションが下手なこと…などなど、は、症状でもあり、(おそらく、の部分もあるし、確実に自覚がある部分もありつつ)対処法でもあるのです。

外から見れば、それは症状でしかないでしょう。

自閉症だからそういうことをする」と見えるだろうし、「そういうことをするから自閉症」と見えるでしょう。

けれども、そうではないのです。

わたしは私の感覚や困りを解消するための方策としてこのように生きているし、困りからこのように生きている。わたしなりの、世界とのバランスのとりかたなのです。

それらの一部は、困りを取り除いてほしいことですし、一部は、やめさせないでほしいことです。

わたしはわたしとしてここにあって、わたしなりにゆらいでいます。

ゆらぐわたしの部分だけに名付けをすることは、この世界で生きるために必要なことであるけれど、不全感のあることでもあります。鏡はほしいけれど、鏡はわたしではありません。

 

うーん!

なんともうまく言えません。どもっていないんだけれども、私も、「どもる体」の持ち主だ、と思います。

 

とかくしゃべりは窮屈だ。(オビより)

 

「どもT」当たりました

感想はこのくらいにしておいて(今後ももごもごとつぶやいたり付け足したりするかもしれませんが)、

現在、2018年10月31日まで、『どもる体』の表紙の女の子が着ているTシャツのプレゼントキャンペーンをやっていまして、当たりました。

f:id:kanokomori:20181007182420j:plain

かっこよすぎる(後日着用写真を撮ってもらい、アップ予定です)。

みなさん奮って応募を。かっこいいぞ。一緒に着ましょう。

igs-kankan.com

 

また何回も読み返して消化していこうと思います。

それでは。