pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

才能ってなんだ?

診察でした。

診察でした。

今日は、ツイッターのまとめと、職業センターと一緒につくる引き継ぎ書のたたき台(会社側に伝える特性の説明書を、はじめより改良したもの)を見せました。

これといって問題になっていることはなかったですが、つぶやいてあったトピックに触れてお話をしました。

そのあと、主治医は言いました。

「こういうつぶやきも、まとめて文みたいにしたらいいのに。」

「あなたは文章や絵で他人に説明するのがとてもうまい。そういうものがあると、あなたはコミュニケーションがぐんとスムーズになる。発達障害者の全員がそういう才能をもつわけではないし、あなたはコアなアスペルガー(主治医の見解では)だから、軽度の人にも重度の人にもある程度参考になるものができるのではないか。読んでいて面白い」

というようなことです。

最近の主治医はわりとこういうことを言うのですが、嬉しいもののあまりピンときません。自然にやっていることってわからないものです。

ただ、今回嬉しかったのは、「発達障害者が全員才能があるわけではない」ということを、主治医が理解していることがわかったことです。

これはとても大事なことで、「発達障害?ってことは数学がすごくできるの?」とか、そういうことを思われては困るのです。

障害はあくまでも障害であって、それ以上でもそれ以下でもない。

なにもかもを障害に結びつける必要はないし、そうすると、誤解が生まれやすくなるのではないかなあ、と思います。

障害は障害だし、才能は才能。

関連していたとしても、それを強調することに、とりあえず今の私は意味を見いだせていません。

 

才能と障害

才能って、「その人自身のもの」であって、切り離せないものだと思います。

「障害があるから才能がある」っていうのは、なんだか全部に対して失礼だなあ、と思います。

 

障害も、「その人が常にともに生きていかねばならないもの」で、特に精神の領域だと、切り離せないことが多い気がします。

自閉症者のジョークで、「with autism」とか、「have autism」という言葉に対して「自閉症は今日はおいてきたんだ」「自閉症ならスーツケースに入れて持ち歩いているよ」なんていう皮肉があるそうです。「そんなことできるわけないだろ」、というわけです。

"I don't have autism. I'm autistic!"

なんていうことばもあると知りました。知って以来、わたしの中で、この文がはやっています。これは日本語訳するのは難しいです。「私に自閉症があるんじゃない、私は自閉者なんだ」といったぐあいでしょうか。やっぱり、「自閉症と私は切り離せないんだ」ってことです。

 

どちらも本人と切っても切れないようなものなので、ぐちゃぐちゃになってしまうのですが・・・

どちらも「その人自身」と密接に結びついているのであって、他のもののせいだとか、他のものが原因だとかいうことではないと思います。あくまでも、すごいのは、その人。困っているのは、その人。なのではないかなあ。

周囲の人が、当事者の特性に困っている、ということも、あるにはありますが、それはそれで、その「周囲の人」自身の困り、として捉えたらいいのです。もちろん、そういうものは環境との相互作用なので、「その人が悪い」と言っているわけではなくて、ということです。「本人を尊重する」という意味において、「困り感は本人のもの」だし、「才能も本人のもの」なのです。

 

障害や才能をどう解釈するかは人によって違っていいと思います。

ただ、こう思う、という覚えとして、今の気持ちを書いておきました。

前回このテーマで書いた時よりも、ちょっとまるくなったな、と思います。

 

morikanoko.hatenablog.com 

morikanoko.hatenablog.com

 

ほめられるのはやっぱりうれしい

結局、私は文を褒められて、うれしかったから、こうやってまたブログにしているんでしょう。と、ここまで書いて思ったのでした。

できることや楽しいことを、できる範囲で、時には飛び出してやっていけたらいいかもしれません。

 

なんだか少しゆううつな夜ですが、のりこえていかねばなあ。とりあえず、とりあえず、と思いながら、進んでいったら、いつのまにか過去になることだってあるかもしれない。

「症状」「特性」、そして「障害」

発達障害と「あいさつ」

発達障害者にとっては、「常識」「マナー」といったものはわかりづらく、そういうものに沿った行動を、時に苦手とすることがあります。

しかし、それは発達障害者は常識的な行動ができない」という意味ではないのです。

たとえば、「あいさつ」。

 

あいさつは、「私はあなたの敵ではないですよ」「まあ、仲良くやりましょう」なんていう意味合いで、記号的に使われます。数種類あり、場合によってゆるやかな使い分けがあります。

ニンゲンといういきものにとって、「(同じ集団の)ニンゲンからあいさつがない」ということは、「不安」になり、「てきかもしれない」「なかまではない」という疑念を起こさせ得る行為でもあります。

※もっと多くの意味を含んでいて、場合わけも複雑ですが、なんとなーくのざっくりした説明・もりによる解釈です。

 

ところが、こういった「慣習的行為の意味」というのは、生まれてこのかた「説明されて学ぶ」ということがほとんどできません。あるにしても「挨拶は人間関係の潤滑油」なんていう、比喩的なもの程度でしょう。

そこで、「意味のわからないことが苦手」で「雰囲気から行動の意味を察することも苦手」「納得しないことはテコでもできない」私たちは困ってしまう、というわけです。(※これも、理由の「一部・いちパターン」でしかありません。例えば、もりの場合他にも、「とっさに言葉が出ない」ということが、あいさつができにくい一因となっています。)

それを学び、納得することができれば、つまり、「本人にとって学習できるやり方であれば」、「身につく部分もある」のです。

もちろん、そうでない、絶対に不可能なことというのもありますが・・・。

 

よって、「これができなければ、発達障害だ」とか「これができたら、発達障害じゃない」とか、その逆も、一概に言うことはできません

 

「症状」「特性」「診断(障害)」は、別ものである

ですから、「ある症状」だけをみて、「診断」することはできませんし、そういった誤解を生む表現も、するべきではないでしょう。(そもそも、診断できるのは医師だけですが・・・)

症状だけ、その原因となる特性だけ、そのまた原因となる診断名(障害)だけ、みて、「あなたはこうですね」と断定することは、すごく危険だ、と思います。

また、ある診断を受けたからといって、「じゃあ、自分にはこれはできないや」と、何かを簡単に捨ててしまうのも、そこにふんぞりかえることも、あまりおすすめしません。

 

必要なことは

症状だけ、診断だけ、をみないで、その奥にある「困った」「どうして?」といった原因を見極めて、それを解きほぐすことが、当事者にも、周囲にも同じように必要なのではないかな、と思います。

障害があってもなくても、誰もがさまざまな状況・症状・特性を抱えて生きているなかで、それを想像し・時に調べ・知り・工夫し、ゆずりあいながら、やさしく生きられたらなあと思います。

 

今回書いた記事の内容の一部(から、さらに膨らませた、たくさんのこと)を、もっとやさしく、きれいにまとめてあるブログ記事をご紹介しておきます。

 

kisaragikou0220.hatenablog.com

とてもよくまとまっている、おすすめの記事です。ぜひ読んでみてください。

 

障害は慣れでは治らない

忘れられた配慮

ちょっと大きいパニックを起こして支援センターに呼ばれて行ってきました。

その中で

・どんどん仕事が忙しくなってきてつらいこと。

・異動がたくさんあって、もはやどのくらい自分の障害を知られているのか曖昧なまま、手帳のことなども書いてあるような書類の受け渡しが雑にされていて気になること。

・仕事を頼まれても忘れてしまうこと。

・忘れたことに気づくとパニックになってしまうこと。

・新しくたくさんのことを任されて、いいのだけれど辛いこと。

・ついつい「大丈夫」と言ってしまうこと。「大丈夫」以外のことを言うのが恐怖であること。

・作業中に話しかけられると、全部わからなくなること。

・肩を叩かれるのはイヤだということ。

・最初に言った配慮がもう全然ないこと。諦めるしかないや、という気持ちになっていること。

こんなことを話しました。

 

このままじゃ壊れちゃうよ、と言われました。

私は「壊れてもいいや、別に」と答えました。

「そんなこと言わないで」と言われ、「カウンセラーとも相談して、会社側にもう一度もりさんの状況を説明します」と言われました。

 

仕事に慣れても、障害はなくならない

「どこの会社でもそうなんだけど」と前置きして、支援員さんはこんなことを言いました。

だんだん慣れてくると、会社側が勝手に「大丈夫だろう」と判断して、最初にお願いした配慮がどんどん消えていくことがあるのね。もりさんのところもそうみたいだね。けれど、障害はそういうものではないんですよ、っていうことを、もう一度説明していかないといけないね。

頑張ればできちゃうから、よけいに自分でもわからなくなって辛かったね。でも、もうあなたはいっぱいいっぱいで、壊れそうに見えるよ。もう溢れちゃってるよ。

異動も会社だからあるよね。今、それで、どこまで、どうやって障害のことが伝わっているのかも曖昧になってしまったね。 

そういうことを、一度、どういう形になるかわからないし、ちょっと時間がかかるけど、「会社も忙しいかもしれないけど、どうなっていますか」っていうことを、カウンセラーも交えて話をさせてください。

 

こんなことを言われました。

 

なんだか自分でも忘れていたけれど、自分は「できないことがある」んだ、「がんばってできる」は、「無理している」で、そのうち倒れちゃう。それは、「ふつう」とはちょっと違う、「できない」ってやつなんだ、と、改めて気づいたような変な感じです。

 

今後どうなるかわかりませんが、改めて障害についての説明(どのくらいの人にオープンにするかなど含め)や、特性・配慮事項を会社側に伝えることになるようです。伝える前に、私に連絡が入るようなので、ちょっと踏ん張りつつ、無理はせず(これが難しい)、様子をみようと思います。

 

病院では上記の関係でコンサータ処方になりそうでしたが、併用の関係で取りやめになりました。うつの薬とは併用できないそうです。うつは治るものなので、まあ焦らず直してから、改めて試してみてもいいかもしれないし、このままでもまあいいや、程度に考えています。衝動的に減薬しないように自分を注意深く見つめなければいけません。

 

いろいろと衝動をおさえつつ、ゆっくり生活していきます。

姿勢について

姿勢が悪いです

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最近、だいぶお腹が出てきたのもこの関係なのでは・・・と疑っているのですが(お腹を机にもたれさせて安定をはかってしまう)。

姿勢が悪いです。

それを補うために、変な姿勢になったり、多動っぽくなったりしている部分がかなりあります。

座位保持の道具がもう少しお求めやすく、身近にならないものか・・・と思っております。

 そういうわけで、イラストにまとめて自分説明書を増やしました。

 

ラクにじっとしていられると、もう少し体力・精神力ともに楽になれそうに思います。休むのが苦手な一因でもありそう。

 

過去の姿勢関連のことが書いてある記事

morikanoko.hatenablog.com

morikanoko.hatenablog.com

 

とてつもない恥と絶望

恥と絶望の発作

時々襲われる、とんでもなく自分の存在や、自分の性(せいべつ、の意味の時もあれば、さが、の意味の時もある)が恥ずかしく、全ての空気に触れている自分が憎らしく、穴があったら入りたい発作があります。

そして、ほぼ同時に、どうしようもなくいきている絶望を感じます。

それはいつもそこに

といってもそれは別に特別なものではなく、意識しないように努力を払っているだけで、いつも私と一緒にそれはあります。わたしはわたしのすべての動作や言葉が恥ずかしい、居心地が悪い。笑うことも食べることも。気持ちが悪い、恥だ、居心地が悪い、ぞわぞわする。

それをちょっと注意を怠ると、起こしてしまう。

そうすると、恥の発作になります。

基本的に、自分の(体の、こころの、)存在がうとましく、非常に居心地が悪く感じています。

感覚過敏や、身体的な問題もある程度絡んでいるでしょう。

できるだけ起こさぬための擬態「極力なにもしない」

どうしようもないのですが、せめて普段はその存在を意識しないよう、かといって触らぬよう、起こさぬよう、注意を払って生活します。

それが、「極力何もしない」「余計なことは言わない」ということになります。

自分の存在を消す。

ふつうの人に擬態する。(まあ、発達障害に見えないように、おかしなことをしないように、みせないように、我慢する。とか、障害者雇用と知らぬ人に、バレないようにするとか、そういうことですね バレてもいいけどバレるとやはり面倒です。)

擬態は疲れるが、せねば針のむしろ

そういうことで、許された場以外では「極力何もしない」型の擬態をするわけですが、ものすごく疲れます。時々叫び出して全てを壊したくなります。もう終わりにしたいのです。でも、そうできないのです。

 

そして、ときどきボロが出ます。気が付いている限りでは、ときどき。

ちょっと調子に乗って、気を使った、気を利かせたつもりが、ぎこちなく、変になってしまう。そんなふうに。

 

恥と絶望。針のむしろ。凍る空気。痛い視線。

 

もう終わりにしたい。

 

※現在この発作をがんばっておさめているところで、そのために体、手足、動かして、います。もう疲れたよー。もう少しだけ、あと少しでいい、自由になりたい・・・

どうして、こんなに、わたしは、この世に生まれたはずなのに、この世に居心地が悪いんだろう。どうして?

感覚のこと(JSI-R)

感覚のことをまとめたい

なんとなく経験上でわかっていることですが、感覚についてひとまとめにしたいな、と思いました。

kidsinfost.net

そこで、この記事の検査を受けてみたいと思いましたが、どうやら通っているクリニックでは無理なよう。

そこで、対象年齢外・検査者が本人ですが、「JSI-R」を試してみました。

ところが、やはり上記の理由で質問の答えを判断できませんでした。無理にやっても参考にはならないだろうと思います。

ただし、「これは私だ!」と強く思ったものをピックアップしてみましたので記録しておきます。

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触覚や固有覚が気になる・・・

見てみると、

・そこそこ過敏はあるが、強くはない

・視覚・聴覚(これもあった)よりも、触覚や固有覚に強く特性が出ている

・嗅覚はほぼ問題なし

・「その他」ってのはなんなんだろうか・・・

という感じになりました。

今までの、視覚・聴覚の対策は継続しつつ、その他についても取り組めるといいのかな、と思います。

嬉しかった診察

後から気づいた嬉しさ

今日は診察がありました。

夜になって、なんとなく思い出して頭の中で再生するうちに、すごくいいな、うれしいな、と思い至った言葉があったので、記事にしました。

 今回は、この記事

morikanoko.hatenablog.com

で整頓したファイルと、薬についてや、検査についての希望メモをもって行きました。

ファイルには、特性を説明した、今まで作ってきたシートも入っており、これからそれを増やして、「自分の説明書」のようにするつもりです。

全部見てもらい、コメントをそれぞれもらったり、質問されたりしました。

そんな中での言葉です。 

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「わかる」なんて、簡単に言わないで!

これはとてもわがままな感情かもしれません。

が、私はけっこうこの気持ちをもっています。

自分に侵入されたくない、という特徴も相まっているかもしれません。

「わかる」なんて、証明しようがないし、本人の痛みは、本人のものであって、誰のものにもなりえない、わかりあうことはできない。でも、そのままで、「わからないけど、そうなんだね。」って「知って、対応する」ことで、みんなで生きていけないかな?と、私は思っています。

だから、この言葉は、なんだかとてもいいな、と思ったのです。

医療者であっても、わからない感覚はある。

それでも、医療者として、できることをしてくれる。

そういう感じがして、急に、夜、嬉しくなりました。

 

こんなことは私のわがままだろうと思うし、理解されにくいことだろうと思います。

けれど、そういうふうになったら、みんなちょっと楽に、みんなが「ふつう」に縛られずに「そのまま」でいられないかなあ、と思います。