ニューロダイバーシティの勉強メモ

※何かあればよろしければご教授ください。

ニューロダイバーシティ

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関連:アイデンティティファースト

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補足

identity-firstについて、経緯に関する補足をいただいたので書いておきます。(私が読んで噛み砕いているのでそのままではありません)

 

昔むかしは、「〜〜という障害の人」「〜〜という病気の人」といった表現がされていて、それに対し、「病気や障害の前に、わたしたちはひとりの人間だ」という、person-first あるいはpeople-first という考え方が生まれた。

そこまでは、「病気や障害」と「わたし」は、「わかれていた」。

ところが、「病気や障害のあるわたし」として、「ひとまとまり」であって、「カバンや荷物みたいに、病気や障害をそのへんに置いておくとか、自分から切り離すことなんてできないじゃないか」(「われら”自閉症者”なり、恥ずべきことなどない」)という考えが生まれた、それが、identity-first である。

また、アイデンティティというのは「わたしは」としか表し得ない、言い換えのきかないものであって、他人が決めることはできず、やっぱり、「わたしは」としか言えない。

(そうすると、「これは違うんだ」とは言えても、簡単に「じゃあわたしは、ってのはなんなんだ、ということに答えるのが難しいわけだ…)

 

ちょっと考える

わたしはこういう考え方をここ最近考えたり好んだりしているのですが、その割に全然よくわかっていなくて、ああ考え続けることが、あり続けることが、”そういうこと”なのかなあ、とか、なんとか思ったりします。

 

ニューロダイバーシティは、「障害は障害でなく個性だ」とかそういう考え方とはちょっと、というか私が思うに「かなり」違うのですが、「多様性」という訳語に引っ張られて、そういう解釈だと思われていたり、「役に立っているんだ」的な考え方が入ってしまったりしていたりするのが気になっています。

支援者や関係者の間では少し知られた考え方なのではないかと思いますが、当事者間ではあまり知られていない気がします。

知っていることと、理解していることと、ことばにできることと、つかんでいる、それを得ていること、行動ができること、は、全部違うので、知られていることが大事かというと、そういうわけでもないかもしれませんが。

こういう考え方をする人間もいるという記録。

カウンセリングの経過記録

カウンセリングのスピードに乗れない 

morikanoko.hatenablog.com

 私の受けているカウンセリングは結構スピード感のある問題解決型といった感じで、どんどんよくしよう、という方向です。少なくとも今の私はそう感じていて、そして、それにうまく乗れません。

私のニーズとの差

もちろん、よくなること、改善することはいいことです。そのように医療は利用するのがいいです。それはそれで自分にも必要だと思います。

 

一方で、わたしは「自分の障害や状態(病気)」と、自分を切り離すことは難しいと感じています。

それはそれで、自分のすなおなあり方なのではないか、と。

 

ところが、それは今ここの社会には合いません。

食い扶持を稼がねばなりません。

そうすると、「大丈夫」なように、「治った」みたいに、「元気に」振る舞うことになります。

ついついそうしてしまう、過剰適応、的な状態ともいえます。

 

そうすると、とても疲れます。

時々、少しくらい、「元気じゃなくていいよ」「あなた自身のあり方でいいんだよ」と思える時間が欲しくなります。

 

それを、限られた医療という資源に求めるのは贅沢かもしれませんが、こういうことを理解してもらえる場が、それ以外にあるかというと、それはそれで難しい。(あまり当事者会的なものも、自分に合うと今の時点では思ません)

だから、ほんの時々でいい、問題解決もしながらになると思う、けれど、「今の元気じゃない自閉的で注意が欠如して多動の自分」を、「そういういきもの」として認識されたい、「自分の一部が正しくない、病んでいるから、取り除こう」とされるのは、一方で結構な苦痛を伴うので、スピードが早いととてもしんどい。

 

…と、こういう感じで、「ほっとできる時間が欲しい」私と、「問題解決をしてなおしたい」医療との差が出ています。

パニックになってしまう

先日、そのことを伝えようとしたところ、色々情報が錯綜して、うまく伝えられず、パニックになってしまいました。

次の予約が取れないほど悲しみと混乱に襲われてしまって、とても怖かった。

 

その後も、もやもやしていて、怖かった。

今日やっと主治医にその旨を伝えて、方針が立てられました。

連絡をして、次の予約を取り、こうして言葉に残すことができるようになりました。

 

次回は上記のようなことをうまく伝えられるとよいと思います。

 

うまくいくといいです。

治療されるということは

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治療されるということは「あなたのその困り、わかりますよ」と言われていると同時に「あなたは正しい状態ではないですよ」と言われていて、つまりは「あなたのことは、理解できない(正常側からみて、診断治療を行うんだから、そうでしょ。)」と線を引かれることだ。

 

医療にそれを求めることが適切ではないと思う。

けれど、「誰にもわかってもらえない」という諦め、絶望、孤独を抱えているとき、「わかってもらえる」という経験(それが誤解でもいいーだってひととひととは分かり合えないのだから、それは誤解なんだ)が、治癒的にはたらくと思う、私にとって。

 

誰ともわかりあえないことにより治療され、治療されることでわかってもらえたような気になり、治療されるってことは決してわかってはくれないのだと突きつけられる。

 

ああ面倒。

面倒な患者だなあ私は。

そんなことに気がつかないでわかってもらえたって思えたらもっと楽なのかな?

でもね、ただ絶望して孤独に、諦めているだけでは、それ以上の治癒は望めないんじゃないかとも思う。その方が楽なのだけれど。すぐわたしは「そっち」に行ってしまうのだけれど。

 

そのためにこうやって綴ったり、描いたりすることは、そこそこ有効。

決定的ではないにせよ、そこそこ、多分わりと。だからいい時代に生まれたと思う。

昔の人が自死してしまうの、わかる気がする。

今だって、わかる。と思う。

魅惑的だもの。

 

でも本当に欲しいのはそれじゃないのかもしれないから、まだ確かめないとね。

 生きてゆくって苦しいことだ。

これ以上は言いたくないだから、言わない。