読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉症スペクトラム。 わわわアール・ブリュット作家です。

「助けを求められる」仕組み

日々 NTさん研究 うつ ASD
Twitterでちらりと見かけた「助けをもとめる」ことに関する考え方に関して

・助けを求めることに気負いが有るASDの人。なぜ?
・助けてもらうということは、それを返さないといけない
・そんなのは無理。いつかまわりまわって行けばいいな、という風でいいのに。

といったつぶやきが流れてきました。
それに対して

・そう言えるのが「自己肯定感」だよな。
・「まわりまわって返せる」し、そういう経験を積んでいるから、助けを求めることに気負いがあるんだ。返せないんだ。

というような意見。

私は、どちらも理解し、しかし後者寄りの認知をもっています。
そうして考えて、「助け・助けられる」しくみは、「融資」に似ている。と思いました。

ーーーーーーーーーーーーーーー


融資のしくみをかんたんに図解しました(シロウトの図で、完璧に正しくないです。注意)。
融資とは、お金をかりることです。
「与信」とも言います。「与信」とは、「信用を与える」ということ。「あなたを信用して、お金を貸しますよ」ってことです。

信用して、お金を貸すためには、「返してくれる保証」がないといけません。
それが、「担保」や「協会保証」です。万一のときにこれらを利用して精算できるように、しているのです。同時に、「きちんと返せる実力がありますよ」という証明でもあります。
それから「今までにお金を返せなかった経験がないか」「犯罪を犯したり、反社会的行為に関わっていないか」も確認します。大きなリスクになりますので、こういう場合、お金を貸したり、また、そもそも「貯金」としての利用もできないでしょう(みなさん、通帳をつくるとき、「反社会的うんぬん」みたいな念書にサインしているはずです。まあそんなの当然ないのでサクッとサインできちゃう、という人は、きっと覚えていないでしょう。アタリマエのことって意識しにくいです)。

これが、「貸すお金の量」と釣り合ったとき、お金を貸してもらえます。

(※)これ、「大変・・・」に見えると思いますが、別に銀行は、お金を貸したくないわけではないし、借金を悪いこととも思っていません。おそらく、個人でも会社でも「ローンを組んで大きなものを買う」とか「融資を受けて事業拡張する」ということはわりと一般的で、むしろ借金のない会社(特に会社は)・個人というのは少ないと思います。
そうやってお金を貸したり借りたりして回して増やして、「互いに信用(とお金)を増やしましょう」というふうな考え方が、「与信」です。(※)

ーーーーーーーーーーーーーーー

さてここからが本題。
これと、「助け・助けられる」ことは、相似に見立てることができるのでは、と思うのです。


おなじ図ですが、文字を変えてあります。
「助ける・助けられる」関係というのは、必ずしも等価交換ではありませんし、「助けられた相手を次は助ける」というように、必ずおなじ人に返すものではありません(これは融資とは違いますね)。

けれど、「助けるとき・助けられるとき」ともに、「担保を審査」しているのではないかと思います。

・これまでに、助けたり助けられたりをうまくやってこれたか?
・友人は、万一のとき仲間になってくれそうか?(フォローしてくれそう?)
・役立つ得意分野があるか?

など、特に「これまでの助け・助けられ経験」がうまく行っているかどうか、というのが主な担保として働いていると思います。
だから「やらかしてばっかりのやつは、助けを求めにくい」。自分が借金を返せるアテや、保証人のアテ・担保となる資産のアテ・今後の収入の見通しがないのに、借金をしようと思いません。同じように、「今後自分が他人の役に立つ見通し」がもてないと、「助けを求める」のはためらいます。「たすけられっぱなし」ではお互いに苦しいのです。

「いいよいいよ」「いつも助けてもらって、ごめんね〜」なんて言っても、そこはやはり審査して助けあっているから、多少、いっとき自分の「助けられ量」が増えても、軽く謝って流せるのです。「助け量」ばかり増えても、「返ってくる見込み」があれば、さほどムカついたり・不当に思ったりしないでしょう。
そして、この「担保」は「自己肯定感」の一部でもあるのではないかと思います。

それから、「いままでのやらかした経験」。
今までに大きな失敗を何回もしていると、もうその時点でかなりマイナスになります。これを取り返すのはかなり大変です。助ける方も「あいつ、またヤバイことになったらめんどくさいし、迷惑」って、おもってしまって、お互い助ける関係になりにくい。
そして、こういう経験が少ない人(定型発達の人など)は、「こんなこと考える必要がない」ので、ホイホイサインできて、ホイホイ借りれちゃう、助けを求めることが簡単なのです。

学校の保護者どうしなどになると「子どもの担保と自分の担保を合算」して「いつも息子がお世話になってるもの、いいのよ〜」なんてできたりしますね。
この仕組はお金をかりるときにも「家族の収入を合算」のように使えます。しかし、どちらの場合も「逆もありえます」。

ーーーーーーーーーーーーーーー

と、こんな感じで、「助け合う関係」は説明することができないかな?と考えました。
ところが、定型発達の人や、今まで助け・助けられる関係をうまく築けてきた人というのは、こうは思いません。「本当に思わない」から、まったく理解できないのだろうと思います。仕方がないことなのだと思います。
それは、(※)で挟んだ段落と、相似な関係なのだと思います。

「自分の担保の存在が当たり前すぎて、自信があるために、ためらいがないし、それを当たり前に感じる→他人がためらっているのが理解できない」

のだろうと思います。
お互い助けあって、みんながどんどん幸せになる」ということが、もう体に染み付いているのですね。

もちろんそれはいいことです。
けれど、こうやって仕組みを考えるのは面白いです。
そして、こうやって考えてしまう人がいることも、知ってほしいです。

そして、そうすることで、「どうしたら互助の仕組みに乗れる人が増えるか」考える助けになると良いと思います。

融資できないけどお金に困っている人が使えるのが、福祉や公的な支援。
助けを受けたいのに一般社会では難しい人が使えるのが、福祉や公的な支援。

ここも似ていて、面白いです。
でも、福祉以外でも、「担保となる能力」を見つけて磨いたり、方法がもっともっと出てきて、一般的になるといいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーー

・・・ってか、「お金」というもの自体「信用の可視化」なんだから、相似な関係になるのは当たり前じゃーん、と、ここまで書いて思いました。悲しい。