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pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

わたしの共感覚もどき

私にとって、言葉・文字には色やうごきや手触りやイメージや風景があります。
文字そのもののカーブなども見とれてしまいますが、文字やことばにうっとりしてしまうのはそれによるところが大きいです。

一般にこのような感覚を持つことを「共感覚」とよぶそうです。
赤ちゃんはみな共感覚をもち、感覚が分化するに伴って、それは薄れる、ともいわれているようです。


共感覚にもいろいろタイプがあり、「本当に見える」タイプもあれば、イメージタイプもあるようですが、わたしはどちらかというとイメージタイプです。一番強いのはどうも触覚、時点で視覚です。音はありません。音に変換できる空気感は感じますが、よくわかりません。
イメージタイプなので、それが現実ではないことはよく承知していますが、ことばや文字にそういうものを感じていることをどうしても確信してしまうのです。文章にするとちょっとアヤシイ、えせスピリチュアルのようになってしまい、とても不本意ですが。

ことばや文字は触れるし、見えるし、空気のように感じられる。飲める。味もある。動いてるのもある。触るととても良い気持ちです。安心します。

この感じをどうやって説明するといいかな?という、現段階での答えが文にできそうなので、記録します。

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①わたしには、ことばや文字のすべてがわかります。
そこではことばは空気でのみもので手触りも味もあり、色もあります。
わたしはことばをざらざら集めて頬ずりしたり、くるくるしたり眺めたり、舐めたりかじったり、撫でたりして、ごろごろ心地よい空間であそびます。わたしはとても自由です。自由に体も動かせるし、表現もできます。ひとりだけどきもちいいことばがいっしょです。
こわいことばは恐怖。恐慌状態です。

②①の「わたし」は体に入ってます。体は、「わたし」と違って盲目で、触覚などが感じにくいです。だって体の形の容器に入っているから。「わたし」が感じていることはうっすらわかりますが、それを外の世界に対して変換することばをもちません。感覚も「わたし」より薄いので、「どういう色か」「どういう動きか」「どういう感触か」などは、部分的、ときどきしかわからないし、うまく言えません。

でも、感覚はあるので、時には自閉したわたしが容器いっぱいになって、容器も一緒にごろごろ、ことばをあつめてあそんでます。
自分の横にことばを置いて、横目で眺めたり、見えないんだけど、なでたり。良い気持ちがします。
ころがったり、びよーんと伸びたり、ゆらゆらしたり、ひとりごとしたり、口から音が出るときの口の感覚は、ちょっと①の感覚みたいで、いいな。と思います。※

こわいことばは意味わからないけどとにかくいや。どうしてこわいのかわからないけど、いや。でも、体は、暴れたりしちゃいけないのをわかってます。それに、体は感覚がうすいから、気がつかない時もあります。
限界になると、大恐慌です。でもよくわからない。でもとにかくぎゃー、と泣きわめいて暴れるしかない、落ち着くまで。※※


③外側からは以下のように見えているのはわかるから、できるだけ控えないとなあ。
※おそらくこれが「おうむがえし」や「ひとりごと・一人遊び」「感覚遊び」
※※パニック・爆発・意味のわからない号泣


①のイメージ。わたしは②なので、本当はもっともっとよいものだし、具体的で、手触りが良くて、よいものなんです。

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以上

共感覚と一口に言っても、いろいろあるようですし、自分のもつこの感じが、共感覚というものなのか自信がありません。しかも、共感覚というと「絶対音感!」「アーティスト!」「天才!サヴァンレインマン!」なんていう仰々しい印象が付いて回り、「うーん、そんなにすごくない・・・」と思ってしまいます。しかも、実際のところ、①が全面表出(実際に見える人はこれかな?)ならまだしも、わたしは②で生きていますし・・・。
だから、わたしは自分のこの感覚を「共感覚もどき」と呼んでいます。

でも、すごくたのしくて気持ちがよいものです。①にも②にも③にも足を突っ込んでいるのは、よくばりなのかも。
①の世界で自動でいろいろなことができて、感じられて、とても自由なぶん、②・③のわたしはいろいろな感覚や機能が手動なのかもしれません。人間そういろいろできませんね。