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pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

生育歴:大学以降

ある程度生育歴をまとめて心理士に見せたものをもう少し詳しく、感覚的に記述してみようと思います。ですので、①たたき台(心理士に見せたものの一部)②本文(曖昧で私的・詩的な表現だらけ。できるだけ当時の頭のなかを書きたい。)という構成をしています。

生育歴を聞かれた際、書いて見せるにしても、あまり長いものは心理士にしろ医師にしろうんざりするので、生育歴を伝える場合は私のように長く書くのは得策ではありません。しかし、私には短くするということが出来なかったので、精一杯の状態で、医師ではなく心理士のカウンセリングで見せました。

⇒大学以降は、まだフラッシュバックもあり、まとめるのが難しいので①のみ+現在

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大学:一人暮らしの開放感。やっと逃げられた、と思った。

一年間は大学という場所に人見知りをしており、「明るい楽しい大学生!!」ねこかぶりちゃんをしていた。ほとんど覚えていない。しかし、2年からは、自分の意見をきちんということが正しく、また真面目なことがいじめの対象にならない、集団も選べるし、集団にならないことも選べる、研究がとても面白いというこの環境に大いに楽しむ。ただし、どうもみんなはしていたらしい「ちょっと帰りにごはん」「ちょっと飲みに」みたいなことはほとんど覚えがない。計画があって、予約を誰かがして、というタイプの飲み会はあったのだが。ゆえに、今でも大学近辺の飲み屋等は全くわからない。それが異常だと知ったのは就職して「どこで遊んでた?」と聞かれた時、全く答えられなくて、指摘を受けたから。授業は小学校の同級生が同じ学部にいたから、学部で一人ぼっちにならなかった。のちにはアルバイトで一緒になったお友達と専攻がおなじになったので、とても幸運だった。

アルバイト:2つかけもちで、続いた。複数のタスクのないことで、とても向いていた。また教える仕事もしていたが、「生徒に教える」という一つのこと、なので大丈夫であった。むしろ優秀であった。1対1の関係(個別指導)なら構築しやすいのである。

また一つはシーズンバイトだったため、そのシーズンが常に決まっていた。そのため、シーズン外は研究、シーズンはそれだけに( 過)集中することができた。

ただし仕事とプライベートの区別がありすぎて仕事の人格と休憩時間の人格の落差がすごくて怖がる人もいた。そして、仕事から友達付き合いを始める、ということがうまくできない。向こうからうまく誘ってくれた友人は「いつまでたってもずっと一緒に仕事をしているのに慣れてくれないから、わたしのこと嫌いなのかと思った」と言っていた。そういうわけではなかった。むしろ、みんなはなぜそんなに仲がいいのか、知らないうちにあの人とあの人はどこどこに行った、などということをふと耳にするとびっくりして、「どうやってみんな仲良くなってるんだ」と思っていた。部活も同様。過去の学校にても同様。「たまたま一緒になったから一緒にいてくれる人」はいるが、そこから「特別仲のいい人」にならない。今でもそのテクニックは謎が多い。

また部活動で「なにも用事がなくてもいていい場所」というものを知る。人生で初めてである。居心地が良かった。


就職:就職活動をしようとするが選択肢が多すぎるのと段階がありすぎてもうわけわからなかった。それから、「仕事」には終わりがない、いつまで、が決まっていない。世間では「社会に出たら地獄だから学生のうちに楽しめ」との噂だ。大学4年になった時点で、恐怖に怯えていた。「死ぬ日が今決まっているなら、計画ができるのに。卒業式が終わったら死ねたらいいのに。」と思っていた。また仕事は4年や3年単位のものではない。ずっと緊張してがんばりつづけるわけにはいかない。いままでのやり方は通用しない絶望を感じた。学校のカウンセラーにかかってみたが、頭の中の言葉と身体で表現出来るものが乖離しすぎて泣き続けることしかできない。一回でやめた。

勉強は好きだったし教えるのも好きだった。それに、「先生」は、いっぱい見たことがあって、視覚的にイメージが存在した。その他の仕事は、「スーツで電話している男性」の図くらいしかイメージがなかった。

採用試験に受かり先生になった。

わたしは面接は苦手ではない。ただし面接や大人数の前で話すとき、怒鳴り声が聞こえてきたときなどはたいてい離人症状になっていて、斜め上に意識はあり、勝手に体が原稿を読み上げているような感覚で浮遊している。したがって「予想外の質問」にはめっぽう弱い。ある程度の「イメージとしてのメンセツ映像(頭の中に動画や写真がある)」と試験の面接に誤差が少なければ、そんなに印象は悪くならない。

先生はいろんな人がいる。あたりまえだ。

いろんな価値観がある。それを全員が声に出す。新人にはよかれと教える。いい職場だ。

全部まもらなきゃ、やらなきゃ・・・

(参考記事:こちら。こういう状態です。)

気がついて「俺の話は、話半分でいい」と言ってくれる先生もいて、話半分に聞く練習もしたが。

また休憩をうまくとれなくて倒れて保健室でやすむこともあり、休憩時間を入れる練習をした。お茶を飲むときに同期の先生(とても年上です)がさそってわたしもやすむように仕向けてくれてた。

先生の怒鳴り声。これを怖がるのは生徒と一緒なんだって。わたしは生徒レベルなんだ。

夜中の2時までは教材研究をするのが若い人は当然なのか。でも朝起きれなかったらどうしよう。

起きれないのはこわいので、朝はものすごく早く出勤した。泣きながら出勤した。どんどん朝は調子が悪くなって、ときどき吐くようになった。


できてあたりまえ、やらないのは努力が足りない。


教えられていない出席簿の使い方ができなかったら「こんなの常識だみんなできるよな?」と他の人を巻き込んで吊るし上げられてすごくばかにされた。

仕事がうまくできない新任の先生が「ショーガイだよありゃ。」と笑い者にされている。

きっとわたしもそうだ。

「空気読んでくれる?」と女の先生に叱られた。どうすればいいかわからないけどあやまった。

顔に気持ちが出ないことを指摘された。他の人は顔まで動かすことができるらしい。わたしも表情を場に合わせて作らなくては。

国語(国語の教員だった)なんか、という英数の先生の態度。

国語なんか、という生徒の態度。

そうじゃない人もいっぱいいた。

だからみんないい人って思って頑張った。

通勤のときに「いま力を抜けば楽になれる」となんども思った。毎日がギリギリの通勤で、車から降りて「ああ、また生きてる。」今思えばもう病気だった。

三ヶ月毎に倒れた。

学校に行けなくなった。

「いい子のわたしはもう 死んだ。」と繰り返し言っていた。

親が連絡をしてきた。

「おおきいこえのひとこわいおおきいこえのひとこわい死ぬしななきゃいけないこわいしにたくない」

親と連絡も会うことも、パニックになってしまうのでできなかった。別に人に間に入ってもらった。

診断がついた。
発達障害の可能性を指摘された。WAISを受けた。

しかし、最初は「発達障害だと思います」といわれただけだったため、「思う」だけだし、紙に書いてくれないとよくわかんない・・・証拠がほしい・・・と思っていた。しつこく聞いたら医師に「あなたは発達障害ですよ!診断してるじゃないですか!何度も聞いてたら診察時間終わっちゃうから!」と怒られた。
もうだめだった。

病院を変え、そこでも診断が出た。

しばらくしてバイト:向いていると思われるバイトをした。しかし職場に怒鳴る人がいて、二回号泣して問題になってしまって通えなくなった。みんなが気にせずできることが気になってしまう。どうして。

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現在:自分の凹みを認識し始め、「どうやら私はなにか支援がないと、いきるのが難しいかもしれない。」と思っている。
すこしずつ、すこしずつの受容の過程の只中にいるのかもしれない。