pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

発達障害児者はいじめられる?

※あくまで私の場合・今の私の私見です※

発達障害外来をたずねたことがあります。

そこで言われた言葉で、ひっかかっていることがあります。

「いじめられたりとか、してないんだよね?だったら大丈夫だと思うけど。」

私はいじめといういじめを受けたことがありません。

もしかしたら、あったのかもしれないけれど。そりゃあ、いじわるな子はいたけれど。
つらい思いはしてないわけじゃないけど。
とにかく、私はそういう経験があまりない、幸福な子供時代を過ごしてきました。
確かに、いじめを受けた発達障害者は、多い印象を受けます。

では、私は発達障害ではないのでしょうか。

わかりません。

自閉度と、能力の突出した部分による補填のはたらきで、たまたまうまくいっている。
そうではないけど、たまたまいじめを受けなかった。
発達障害ではない。

どれなのかはわからない。

そもそも発達障害の概念や、併発しやすいと言われる障害に関しても、十分定義がなされているとは言いがたい状況です。

さらに、「障害」そのものの定義において
「現状、社会生活に困っているか?」
ということを主軸におくのか、「その性質そのものを有するか?」におくのかという2つの考え方があり、現状前者がメインで診断が行われている、という点も考慮する必要があります。

私は、一番自分の症状について表現できた医師による
「確実に発達障害はあるが、突出した部分での補填を、今までも、今もかなり頑張っているよ。診断書に書くまでの状況では無いけど、凸凹のある状態で、うまく生きる術を見つけていこう。」(かなり意訳ですが
)という見立てと、自分が感じる
発達障害の人が心地よいと感じる工夫が、自分にとっても心地よい」
という感覚によって、自分を見つめています。

さて子ども時代ですが、過去の記事はこのあたりが一番こども時代の頭の中でしょうか。
今思い出すと、今のいままでくらい、「普通」だと思っていましたが、耐えられなくなってメルトダウンして教室を飛び出したり、ひどいと帰宅したりしていたこと、(生育歴も書きました)結構な面倒くさい子どもでした。

でも、いじめは受けなかった。
むしろ、私を助けてくれる子がいっぱいでした。
褒められた記憶もたくさんあります。

今も、小学校の同級生に、仕事が上手く行かなくて、やめてしまったことを言ったら、「絶対に、Kanokoちゃんに合う仕事が、あるからね。」って言ってくれる子がいます。

うまくお話ができない時に、筆談してくれた子もいます(小学生!)。

目線やみんなの動きで、自分のすべき動きがわからなくても、言葉で教えてくれる子もいます(ちょっと面倒くさそうだけど、当然でしょう。失敗してから、急に怒り出したりしないだけで、すごいことです)。

中学生や高校生にもなって理不尽なことに耐えられずにメルトダウンする私を、変な目で見たりしないで、「つらかったね」と言ってくれる、「〜〜が嫌だったけど、途中まで我慢してたんだもんね、偉かったね」と言語化してくれるクラスメイト、デメリット(あなたがこの授業を必要ないと思って、つらくてしかたがないのなら、5回までなら進級できるからサボれるよ、でも、成績は「2」だよ)も提示しつつ、教室に無理に居なくてもいいよ、と選択肢を提示してくれる先生。

両親や妹も、私の他動や多弁を面白がって、うっとうしがりながらも受け入れてくれて。
ルールに縛られすぎて半狂乱になりがちな私を知ってか、ルールを少し破ったって、そんなに大したことじゃない、ということや、遊びなさいよ、といった声掛けを常にしてくれ、「障害」は認めずとも、「私の性質」に合った関わりをしようとしてくれています。

変だけど、それを面白がって遊んでくれる子がいます(わりと、童顔があいまってか、特に小学校中学校ではそういうキャラクター、クラスに居るちょっと年下の子、宇宙人?として認知されていたふしがあります)。

しごとでも、きっちりしないとつらい、と言ったら、ただただ「そっか。そういう性質なんだね。」とだけ、たったそれだけの反応しかしないで居てくれた主任(「ショーガイ」、「ショーガイ」などと悪口と愚痴の混ざったようなことを言われる場合もあります。それも見ています。だからこそ、ただただそれだけということの、それが、なんとありがたいことか)。

今だって応援してくれるひとがたくさんいます。

そのままでいいよ、とは言わないけれど、そのままの私を見てくれる「よき理解者」に恵まれています。

仕事はたまたまうまくいかないことがあったけれど、今は、自分に向いていることを見つけながら、現実とも向き合いながら、進んでいます。

いじめは仕方ない、普通と違うから、うっとうしがられて当然だ。
排除されても仕方ない。
発達障害の人だけで国がほしい。
定型発達の人や社会がうらめしい。

そう思うことも仕方がありません。
たくさんのことを諦めることも作戦のひとつです。

でも、あきらめないだって、良い場合がある。
それはとても幸運なことなのかもしれないけれど、それが「普通」にならなきゃいけないよ。

いじめは犯罪で、人権侵害で、憲法違反で、この世界では決してしてはならぬことです。
その「理由」とその「行動」は分けて考えなければなりません。
「理由」は解決されるべき問題をはらんでいることがいっぱいあります。
でもその「行動」は許されません。

これまでしんどい思いをしてきた人々がたくさんいるけど、それを受け継ぐ意味は無い。
それは「うさばらし」です。

優しすぎる社会だっていいじゃない。(甘い、とは違いますよ)


夢のまた夢だろうが、私は夢見る。

いま、しんどい人、それがラクなら、諦めたっていいよ。私もそうしてるところがいっぱいあるよ。
でもやっぱりおかしいよね。
全部を受け入れろ、なんて言わないけど、
理不尽な仕打ちは、おかしい。
そんなアタリマエのことは、絶対、通らなきゃなんないよ。
間違ってることと、そういう仕打ちの原因、相手の事情、そんなのは、全部別のものだよ。
おかしいことはおかしいよ。

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そして、いじめを受けたかどうかは、「発達障害そのものの困難」とは別のものだということも最後に記しておきたいと思います。

いじめられなくてもメルトダウンは起きるし、

いじめられなくても色々な身体機能認知機能は手動調整だし、

いじめられなくても虚脱して勝手に寝込んでます。

別の面で補填できても、その疲労は凄まじく、
仕事をしていた時は、自宅と土日は、清潔を保つことすらあやうく、完全介護のような状態でした。


いじめによる影響は「二次障害」とよばれるものでしょう。
発達障害は、それそのものが脳の癖としてある「一次障害」です。

工夫次第で「全然障害がわからない」状態で適応することができている場合は、それで構わないし、それが理想ですが。