pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

雑感の記録

最近考えている、「自閉症」って何だろうということ。

 

「まとめ上げる、すなわちりんかくを作る=(表裏で)いらないものを捨てる」ということの苦手さ、ないしはできなさ

 

という視点で、いろいろな「結果的に起こる症状・特性」を説明できないか、ということ。

 

感覚の過敏・鈍麻(特異性)

感覚の過敏性は、どちらかというと「特異性」といったほうがしっくり来る気がしている。「結果的に過敏の状態」というわけであって、実態は、細かい情報がまとめ上げられることなく(つまり、余計なものを捨てずに…聴覚過敏でよく言われる『カクテルパーティ効果」のなさ)いちどにその人をおそってくる、という状態になっているのではないか。

そして、鈍麻は、身体感覚の薄さのほうで説明できそうだ(★)。

身体感覚の薄さ

「まとめ上げる」ことができなければ、世の中のものものの輪郭をきちんと作る・区分けして「ある・モノ」として理解することは難しいだろう。

そして、自分の体も把握しづらく、ふわふわとしてしまう。これでは、怪我をしても、痛くても、それを「自分の痛み」として把握することは難しい。これが「感覚の鈍麻」というあらわれになるのではないか(★)。

また、「みえないものはなく」なるだろう。時々当事者のいう「モノと一体化してしまう」というのも、自分の輪郭やモノの輪郭が定まっていないのであれば、納得がいく。

コミュニケーションの障害(?)

これは、単に多数派からみたらそう見える、というだけのことのようには思えるが、自閉症の特性としてとりあえずはじめのうちに大きく出てきたものなので説明してみよう。

まず、おそらくヒトは「前提としての知識や感覚」が、八割がた、自分と他社は同じであろう、と信じられなければ、うまくコミュニケーションがとれない・とりにくいものなのだろう。おそらく。

ものごとを大きく捉える(くくる・グループ化する=りんかくをつくる)ことが苦手(前述)な自閉症者は、どうもそりゃあコミュニケーションは苦手だろう、外したことも言動してしまうだろう、という感じはする。

 

ただし、これについては、「ひととひととは異なる」ということを、もう少し多数派の人々に自覚してもらいたい、と思っており、なんだかうまく考えられない。

多数派のひとというのは、たまたま「みんなとわたしはにている」状態を享受できているだけなのである。それが悪いとは思わないし、それはそれで配慮するべき特性、とも言えなくはないが、少数派のひとびとが、それに必死で合わせているから、そういういことを享受しているのだということは、少しは考えてもいいのではないか、あぐらをかくのはどうなのか、という気がする。

 

その他

その他不器用さや社会性・ことばの遅れといったものも、やはり、きちんと輪郭をつくっておおまかに世界を分割して、だいたい「ふつうに」世界認識ができなければ、それは難しいだろう。

その他の特性も説明してみたいので、何かあったら、コメント等いただけると助かります。

 

発達障害を知ることは、にんげんってすごいなあ、こんなことを自動で行うのか、ということを学ぶことになる。とてもおもしろい。ふしぎだなあ。