pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

障害を語るということ

当たり前に、障害とともに生きてきた

私は、成人後の診断で、障害を知りましたが、うつはともかく、発達障害の特性に関しては、生まれたときからつきあってきたものです。

ごく当たり前に、その特徴とともに生活してきました。

感動をさそうつもりはなく、ごくごく当たり前に、携帯電話とか、いつも使っている食器とか、いつも使っている自分の手足とか、そういう感じに、わたしとともに、障害というものが存在します。

だから。

障害のことを隠しながら行動するというのは、非常に難しいことです。(けっこう)あらゆる行動に、生活に、障害はともにあります。

そして、だからこそ、困難があり、障害者として生きることを、とりあえず選んでいます。

 

例えば、あなたが「歩く」ということを、いちいち感動されたり、不憫がられたり、腫れ物に触るようにされたら、とても奇妙な心地がするでしょう。

だからといって、「歩く」ことをやめることができるでしょうか?日常会話で「歩く」ことに触れないで(つまり、「どこどこへ行ったよ」、なんていう会話ができないのです)会話できるでしょうか?

 

ごく当たり前に、障害を、生活を語れる場が欲しい

これは私の場合ですが、私は日常的に障害のことをオープンにしているわけではありません。隠しているわけでもありませんが。

けれども、自分なりに気を遣って、「相手に気を遣わせないように」、自分の発言を吟味します。

障害のことをふと言って、腫れ物にならぬよう。変な攻撃を受けぬよう。

(それでも、やっぱり特性は出てしまうのですが・・・一応・・・)

 

それはけっこう苦しいです。

私にとって特性があることは日常であって、でも同時に困難でもある。

 

うーん・・・

難しくてうまくまとめられません。

けれど、いつもそこにあるものを、無視して語るのはなんだかやりにくいのです。

もっと当たり前に、日常を過ごせるようになりたいと、思います。

私はわたしの日常を、ふつうに過ごしたいのです。

みんながそれぞれの日常を、変に特別扱いされずに、他人に合わせすぎること無く、淡々と、当たり前に幸せに過ごせたらいいのに。