pluie de météors

もりの思索について綴ったものです。 自閉スペクトラム症。 わわわアール・ブリュット作家です。

ことばの「面倒さ」とはどういうことか

「ことばは面倒だ」と言うASD者 

Twitterで見かけた、ASD児者の「ことばは面倒」という発言。

私もそうだと思います。

いくつかの記事やツイートで、それに類することは主張しているのですが、あらためて「ことばの面倒さ」について、記事にしてみようと思います。

 

ことばを使う、とはどういうことか

「とりあえず、ほぼ、同じである」という暗黙の了解

まず、ことばを使う、とはどういうことでしょうか。

morikanoko.hatenablog.com

これは以前、かなり昔ですが、書いた記事です。

ひととひととは、「ほんとうにわかりあう」ことはできていないものです。

それでも、前提として「だいたいこんなことを考えるものだ」「ある程度の幅は容認しつつ、こんなふうに感じるものだ」という暗黙の了解のもと、社会生活を営んでいます。

その前提がなければ、社会は危なくゆらぐでしょう。

つまりはそういうことで、ことばを使う、というのは、「あることばは、こういう意味だ」と、だいたい通じているだろう、と、みながある程度の信用をして、ある程度の幅を容認して、「とりあえずおなじ」と前提して使っている★、ということになります。

 

言語化の難しさ

認知特性「映像や画像での思考」

ASD者に限りませんが、ヒトが思考する時、何を使うかは個々人で異なります。

その際、どうやら多くの人というのは、言葉をたよりにして思考するようです。

ところが、ASDの人は、「映像や画像」など「言葉以外」のツールをたよりに思考する人が多いです。

そうすると、その思考を表現する際には、それを言葉に落とし込む、という工程が必要になり、タイムラグが起こりますし、変換しきれない部分も出てきます。

そのため、「ことばは面倒だ」と感じます。

 

わたしは、頭にUSBメモリでも差し込んでそのまま落とし込めたらラクなのにな、伝わるのにな、と思うこともあります。

 

語彙の不足・身体感覚のちがい

また、単純に語彙が不足しているということもありえます。すると、思考している内容をすべて表出することができません。「ことばは面倒だ」と思うでしょう。言語の発達段階によっては、かんしゃくやパニックも起こりえます。これはASD者にかぎらずそうでしょう。

さらに、ASDをもつ人は、身体感覚がASDでない人と異なっていたり、希薄だったり、過敏だったりすることがあります。

すると、それをことばにしたとき、他者と、大きく表現がずれたり、伝わらない、と言う経験が、通常より多く起こります。人格ではなくとも、否定される、という経験が多く積まれます。それはつらいものです。

そうすると、「ことば」や「自分の感覚」といったものをうまく信じることができにくくなります。

の前提をもつことが難しくなります。

 

 言語化の乱暴

もっと多くのことを感じているのに

私が最も強く主張したいのが、この部分です。

ことばは、はじめに記述した通り、「だいたいこうだろう」という、ある程度の信用で通じている、という面があります。

すると、どうしても、バラツキのある個々人の「平均」をとらえた意味を、おおざっぱにすくうことになります。

 

すると、どんなに丁寧に、丁寧に、ことばを紡いでも紡いでも。

感覚や意味、細かなニュアンスやうつくしさ、ちいさなモヤモヤや見落とせない感覚。

私にとってとても大切なものものが、ぼろぼろとこぼれ落ちた表現にしか到達できません

それは、ひどい暴力に感じます。

「とりあえず、いいじゃん、きにすんなよ」を、毎回毎回、毎回毎回、耐えて、耐えて、過ごすのは非常に苦痛です。

 

きっと、ヒトの歴史の中でたくさんある「むだなもの(むだにみえるもの)」というのは、そういうことを、ゆるせなかった、過去を生きてきたたくさんのわたしの先輩たちのもがきの痕跡なのです。

 

まとめ上げることが苦手

上記は、ASD者の特性のあらわれとしての「細部にこだわる≒まとめ上げることの苦手さ」にも関わり、言葉でおおざっぱにくくってしまうということに対する不全感が、ASDでない人と比較してASD者により多くみられることに関わるのではないかと思います。

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それでもわたしは、ことばを使う

ああ、なんて不便なんだろう。

面倒で仕方がない。

全部、ダンスでいいじゃん。

とか、

もう、なんにも表現しなくていいじゃん。

とか、

もやもやして、いらいらして、とめどない不全感にやられてしまいます。

 

でも、ことばというもののうつくしさも、理解しています。

そして、現状、おおかたのひととひととがわかり合うための、そこそこの手段のひとつ、上位に、ことばというのは含まれます。とりあえず言葉にすることの必要性も、充分にわかっているつもりです。

ことばが嫌いではないのです。

好きだからこそ面倒で。

でも、同時に暴力で。

やられながらもうっとりしている自分がいます。

もっともっと伝えたい事があるのに。

表現できたらいいのに。

ことばは難儀なものです。

でも、それでも私はことばをあきらめません。

使います。

もがいてもがいて、わたしの思考やみたものきいたものの痕跡を、ことば(や、その他の手段でも)で残してやろうと思います。

 

こんなふうに感じているひとがいることを、まずは知ってもらえたらと思います。

 

↓覚書として。

togetter.com