「症状」「特性」、そして「障害」

発達障害と「あいさつ」

発達障害者にとっては、「常識」「マナー」といったものはわかりづらく、そういうものに沿った行動を、時に苦手とすることがあります。

しかし、それは発達障害者は常識的な行動ができない」という意味ではないのです。

たとえば、「あいさつ」。

 

あいさつは、「私はあなたの敵ではないですよ」「まあ、仲良くやりましょう」なんていう意味合いで、記号的に使われます。数種類あり、場合によってゆるやかな使い分けがあります。

ニンゲンといういきものにとって、「(同じ集団の)ニンゲンからあいさつがない」ということは、「不安」になり、「てきかもしれない」「なかまではない」という疑念を起こさせ得る行為でもあります。

※もっと多くの意味を含んでいて、場合わけも複雑ですが、なんとなーくのざっくりした説明・もりによる解釈です。

 

ところが、こういった「慣習的行為の意味」というのは、生まれてこのかた「説明されて学ぶ」ということがほとんどできません。あるにしても「挨拶は人間関係の潤滑油」なんていう、比喩的なもの程度でしょう。

そこで、「意味のわからないことが苦手」で「雰囲気から行動の意味を察することも苦手」「納得しないことはテコでもできない」私たちは困ってしまう、というわけです。(※これも、理由の「一部・いちパターン」でしかありません。例えば、もりの場合他にも、「とっさに言葉が出ない」ということが、あいさつができにくい一因となっています。)

それを学び、納得することができれば、つまり、「本人にとって学習できるやり方であれば」、「身につく部分もある」のです。

もちろん、そうでない、絶対に不可能なことというのもありますが・・・。

 

よって、「これができなければ、発達障害だ」とか「これができたら、発達障害じゃない」とか、その逆も、一概に言うことはできません

 

「症状」「特性」「診断(障害)」は、別ものである

ですから、「ある症状」だけをみて、「診断」することはできませんし、そういった誤解を生む表現も、するべきではないでしょう。(そもそも、診断できるのは医師だけですが・・・)

症状だけ、その原因となる特性だけ、そのまた原因となる診断名(障害)だけ、みて、「あなたはこうですね」と断定することは、すごく危険だ、と思います。

また、ある診断を受けたからといって、「じゃあ、自分にはこれはできないや」と、何かを簡単に捨ててしまうのも、そこにふんぞりかえることも、あまりおすすめしません。

 

必要なことは

症状だけ、診断だけ、をみないで、その奥にある「困った」「どうして?」といった原因を見極めて、それを解きほぐすことが、当事者にも、周囲にも同じように必要なのではないかな、と思います。

障害があってもなくても、誰もがさまざまな状況・症状・特性を抱えて生きているなかで、それを想像し・時に調べ・知り・工夫し、ゆずりあいながら、やさしく生きられたらなあと思います。

 

今回書いた記事の内容の一部(から、さらに膨らませた、たくさんのこと)を、もっとやさしく、きれいにまとめてあるブログ記事をご紹介しておきます。

 

kisaragikou0220.hatenablog.com

とてもよくまとまっている、おすすめの記事です。ぜひ読んでみてください。