合理的配慮や権利というものについて

これは、2018-04-28日の記事に加筆修正したものであり、今現在書けることです。

うまくかけているのかわかりません。これからも考えつづけることです。

合理的配慮は権利です

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合理的配慮とは

資料3:合理的配慮について:文部科学省

h-navi.jp

ふたつのページを参照しました。

合理的配慮とは、社会モデル的に障害のあるひと(いわゆる障害者手帳所持者に限らない)に対し、「必要かつ適当」な範囲で、本人が必要とする配慮を行うことです。障害者本人は、合理的配慮を受ける権利があります。

詳しくはリンクを参照ください。

そして、学校や会社といった周囲・社会は、その合理的配慮を行う義務を負います。

ただし、これは行政の場合は絶対ですが、その他の民間の機関については努力義務であり、過度な負担が生じる場合は「障害者本人に理由を説明すれば」、配慮を断ることができます。

 

合理的配慮を受ける人は、何らかの義務を負う、という記述は、ありません。

 

権利と義務って?

「権利を行使するなら義務を果たせ」

どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。

これは間違いです。

例えば、教育を受ける権利。

これに付随する義務は、「勉強する義務」ではありません。「教育機関や保護者が教育を受けさせる義務」です。

 

つまり・・・

 

「権利」は、それだけで「本人にあり」ます。

「代償となる義務」は生じないのです。

 

例えば、(発達)障害でいうなら?

「障害者(発達障害者)は配慮を求める際に、健常者(定型発達者)に配慮しろ」

「配慮を受けるなら、その配慮を他の人も受けられるように掛け合うのが代償だ」

「権利を主張するのはかまってちゃんだ、みんな辛いんだから」

 と、こんな感じでしょうか。

これが、「権利と義務」「合理的配慮」を履き違えているものです。

 

例えば音がつらい(聴覚過敏)という状態に対して、学校や会社で耳栓の使用を求める際に、「他にも辛い人がいるかもしれないので、全員に認めてもらえませんか」と掛け合う必要はない、ということです(自分でやる分には構いませんが、配慮を受ける人間の義務では、ありません)。「他の辛い人」の配慮をする義務は、配慮される側ではなく、配慮する側、つまり「学校や会社」にあります

 

※ただし、「配慮される側」は、いつでもどんな時でも配慮される側だ、と言うわけではなく、時には「配慮の義務を負う側」になることもあります。が、それは「対になっているのではなく、場面の違い」です。

 

また、「大変申し訳ありません、私の障害のせいで、みなさんごめんなさい」と、必要以上に縮こまる必要もない、ということです。

 

堂々と配慮を受けて構わない、ということです。

 

「合理的配慮に付随する義務って、あるの?」

ありません。

必死の思いで、ただただ普通に生きるために配慮を受けている人、ひとり、に、代償として義務を課すのは酷ではないでしょうか。 あまりに不平等がすぎるのではないでしょうか。それは、社会全体に課されるべきではないでしょうか。

 

無意識に享受しているもの

よくある例え話ですが、例えば多数派が手話で話す人だったら、社会はどういうかたちになるでしょう。例えば多数派が車椅子ユーザーなら?

 

無意識に「現在の多数派」は、「多数派ナイズされた」「多数派仕様になった」社会を生きるという便利さを享受しているのです。

 

それを自覚しなくていいということは幸せです。

それを享受するなということではありません。

それを「全員が享受できる社会を作ることを、多数派の人も一緒におこなってください」。

それが、「基本的人権の尊重」とか、そういうことなのではないでしょうか。

わからないのだけれど、たぶん、いまのところ。

それを勝ち取り続けたいのです。

よろしくお願いします。

 

morikanoko.hatenablog.com

 

みなは笑顔で「ふつうに」生きられますように

必要とする人が(もちろん診断や手帳の有無は問いません)、必要な配慮を適切に受けて、みんなが楽に、必要なところで、頑張りたい場面で、頑張れる、頑張れない場面では、ちょっとラクになれる社会が来ることを願っています。