しあわせになるということ、についてのうんざりするであろう話

しあわせになる権利と可能性が我々すべてのひとにある。

 

しあわせになるための能力はひとによって異なるし、表出も異なるし、しあわせのかたちも違う。一見そうは見えないようすでも、しあわせになる、せめて、世界と折り合いをつけて生きてゆく、そういう方策を、ひとはとっていると思っている。そのよしあしの評価ではなく、諦めるのも、憎むのも、苦しむのも、攻撃するのも、そういったものすべて、である。

 

そして、我々すべての社会は、我々すべてのひとをしあわせにする、そのための、土台(つまりはお金とか、資源とか、ひととか、そういうものもの)を整える義務がある。

 

現実はどうあれ、そういう義務がある。

 

これは、ライフハックのような技術の話ではない。

これは、全ての人間が輝くという話でもない。

 

 

障害のあるなしにかかわらない。

障害の重さにかかわらない。

 

たとえば、「表出をみるに、重い障害があり、生きているだけで本人も周囲も苦痛」「犯罪を起こさせないだけで精一杯」”のように見える”としたら。

 

「現実」「現実」「現実」!

「これが現実」!

だから、それはそれ?

 

これは「ライフハック」などの話ではない、お金の話でもない、しあわせになることの話である。

 

「苦痛に見える」だけかもしれない。理由があるかもしれない。

困っているのなら、困らないように、理由があるのなら、ほぐして、それが周囲・法とぶつからないように、調整をし、社会を整えなくてはならない、のである。

 

しあわせになることの話において、ひととひととのあいだに線引きはできない。してはならない。

 

 

「しあわせになれる」とわたしは言わない。

ひとによって、しあわせが異なる、状態像が異なるから。

しかし、「しあわせになる権利と可能性がある」と言う。

そして、できるできない、いますぐ将来的に、そういう部分は、正直、困ってしまうのだけれど…、やっぱり、我々すべての社会は我々すべてのひとりひとりを、しあわせにする、認め合いともに生きる環境を提供する義務がある、と思う。

 

 

これは理想で、希望で、意地で、ただの影響された怒りで、衝動で、ひどく意地悪な攻撃で、気持ちの悪いロマンチスト、ナルシストかもしれない。

でも、どうしようもなく、いま未熟でも、きちんと言葉にしようと思った。

もうそれはうんざり、というひとがたくさんいると思う。申し訳なく思う。

 

いろいろなやりかたでしあわせになろうね。

過ぎてゆく時間に、あなたのしあわせが間に合いますよう。わたしのしあわせが間に合いますよう。未来の子らのしあわせが間に合いますよう。

 

この祈りを。石を、私は投げるよ。

 

 

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