信じてほしい

 

ぼちぼち反応をいただいて何とはなしに思うところもあったので記録しておこうと思う。

 

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「我慢できる」は「我慢している程度には辛い」

いちばん反応をいただいているかな?というのが若干戦略っぽいこちらです。

「大丈夫です」と「言ってしまう」のを、「とりあえず我慢できる」と言ってみていること。

その捉え方は人によりけりで、「あ、我慢できるならいいよね」ともとれます。

けれどこれを「今すぐどうってことではないけれど、辛いんだ」という捉え方もできます。

書いてみてわかりましたが、これ前者は「勝手に「いいよね」と結果を決めている」のに対して、後者は「辛いんだ(いいのかダメなのかは言及していない)とだけ認知してくれている」んですね。

だから余計にありがたいな、と感じる捉え方だとわたしは思うのかもしれません。

伝える、対処する、というコスト、半分こしてくれないかなあ

環境によってはそうとは限りませんが、感覚過敏や感覚の特異性をもつのは大抵少数派で、現在世の中や世の中の認識(いわゆる「ふつう」みたいなもの)というのは多数派に合わせた仕組みに「多数派ナイズ」されているような状態。

その中でまず「自分の生まれ持ったこの感覚はどうも、人とは違うらしい」と気づき、「どうにかうまく生きてゆくために対処を考え」、「そういう一連のわかってもらいにくい事柄をどうにかこうにか他者に伝える」ということを、少数派が担っています。

どうにか、こういうコストを半分こしてくれないだろうか?

とついつい思ってしまいます。

耳栓を半額出してくれとはいわないけれど。

「自分の生まれ持った感覚はどうも、多数派らしい」と気づき、「少数派と否応無くともに生きる術を考え」、「一連の感覚のすり合わせを一緒にして、信じて、聞いて」はくれないかなあ。

くらいは、思っています。

 

感覚の特異性をもつ人は、コミュニケーションにも困難を抱える場合があって、「伝える」ことはもしかしたら通常の倍のコストがかかっているかもしれない。(これって多数の人にもわかる感覚じゃないかと思いますが)そうすると、「自分で、一人で対処したほうが責任も自分だけだし、楽じゃないか」「自分だけが辛いほうが、極端なことを言えば、自分を殺すほうが、他者と考えをすり合わせるよりは、楽。まし。(どうせ信じてくれない)」という思考に、無意識にも意識的にもなってしまうっていうのも…。

信じてほしい、わたしの感覚

ただそれだけで、ちょっと楽になる、ちょっと体力が増えちゃうことだってあるかもしれません。

まず、とにかく、わたしは、信じてほしいなあ、となんだか思います。

そして、今、インターネット上や、現実の片隅に、信じてくれる人、一緒に考えてくれる人がいることが、たいへん喜ばしいです。

そういうことの積み重ね、本当に些細で、それがものすごくたくさん積もったもので、「伝えてみようかな」「頼ってみようかな」の芽が出るんじゃないかなあ。

(もちろん、うまくいかないこともあるけれど。それは、誰が悪いわけでもなく、ただただいろんな環境や運が、うまく回っていないことなのだろうけれど。)