不登校の一歩手前の話

小学校高学年から高校生にかけて、一番「学校」が、「家」が、「地元」が、とてもとてもしんどかった。

 

小学生のころは、自覚はなかった。

気づいたら円形脱毛ができていて、「原因はストレス」だ、と「家庭の医学」で調べた母が知り、辛そうにしていた。

わたしは自覚がないので、ぜんぜんよくわかっていなくて、でも「このままはげちゃったら、すごくすごく、いやだなあ」と思っていた。

 

中学生になって、どんどん周りが大人びて、やっぱりわたしはついていくことができなくて、少しづつ、しんどい気持ちが出てきた。

「辛い」とか「しんどい」とは、はっきり自覚して思えていなかったように思い出す。

癇癪が徐々にひどく、頻繁になっていった。

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それまでも、おそらく発達障害の影響か、たぶん、だが、家で癇癪を起こすことは、一般的な子どもに比べて多かったように振り返る。

少なくとも三ヶ月に一度は大きな癇癪を起こしていたし、おそらくいろいろがしんどい時には、毎日のように癇癪を起こすような子どもだった。

それは、20歳を過ぎても続いていたし、今だってメルトダウンを起こす。

 

癇癪のわたしは泣きわめき、周囲のものを壊すし、自分を傷つける。

母はそれにどんどん疲れてしまって、中学生以降くらいは、だんだんカウンターのように癇癪のようなものを起こすようになっていたし、その過程で虐待に近いようなことをされたのも、今はぼんやり覚えている。ちょっとトラウマになっているし、そのあたりの影響もあって今でもわたしは「家族だって私を助けてはくれないし、みんな、私に”死ぬなら一人で誰の迷惑にもならずに死ね”と思っているから、そうしなければならない」と思っている。母にも私にも、もっと前に支援が必要だったのだろう。

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それでも、中学一年生の頃は、小学校の頃から「そういうわたし」を知っていて、ふつうに接してくれるような子と同じクラスになっており、運良く、なんとかやっていたように思う。

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二年生になって、クラスが変わって、そういう子と、クラスがわかれた。

先生もクラスの子も、ちょっとわたしとはタイプの違うような子、わたしのことをあまり知らない子が多くなって、わたしはそこになじめなくて、ほとんどいつも、隣のクラスに逃げ込んでは遊んでもらっていた。そんなことをしているから、余計に「グループ」みたいなものからアウトサイダーになって、ふわふわ浮いていた。

幸いに勉強だけはできたから、授業は受けることができた。

授業中は、先生と友達、のような感じで、先生に、話しかけてばかりいた。

 

そうやっているうちにどうしてか学校に行こうとすると足が止まってしまって、根っこが生えるようになった。

 

明確に理由はわからなくて、本当に理由がなかったんだと思う。

みんなの成長についていけなかった。

感覚が過敏だった。

体育のダンスができない。

仲間はずれにされた。

先生が矛盾することを言う。

あえていうなら、そういうことの積み重ねのようなものかもしれないけれど、とにかく事実は「行けない」「こわい」というそれだけ。

 

とにかく根っこが生えてしまったのだから、ただそれだけの話だ。

はじめのうちは行こうとしたし、無理に行って、学校の門の手前で固まっていたりした。学校に行ったものの、途中でこそこそ逃げ出したり。

そのうち、親にやいやいと「早く行け」といったことを、言われるのがいやになって、親への反抗のようなものもあいまって、学校に行くふりをして、親が会社に行くまで近くに隠れていたりするようになった(近所の人にすぐにばれるし、当然がっこうにもばれるので、親にもばれる)。

結局家から出られなくなって泣きわめき、親も泣いた。

親も嫌気がさしてしまって、「自分で電話しなさい」と言われて、毎日泣きながら「行きたくないので行きません」と、学校に電話した。

そういうことを週に何度かやっていて、だんだんそういうふうになった。

 

ただ決定的に長期欠席とまではいかず、そういうことをずるずる繰り返しているうちに、なんでだか学校に行くようになっていた。

 

学校に行っても、相談室でスクールカウンセラーの先生のところで、じっとしているだけのこともあったし、体育なんてほとんど出ていない。

 

どうして決定的に不登校にならなかったのか、本当にわからないけれど、推測するに、カウンセラーの先生と、図書館司書の先生、学年の子のやわらかさ、生徒に対して謝れるやわらかさのある教科の先生、そういうことが全部うまく影響してくれたのだろうと思う。

スクールカウンセラーの先生と一緒に歩いて下校したこともいっぱいあるし、図書館司書の先生のところで授業をさぼったり、こっそりお菓子をもらったこともある、間違っていることに対して癇癪を起こした私に、きちんと謝ってくれた教科の先生も、ああ信じられると思えたし、あまり学校に来なくても、へんに特別扱いしないで迎えてくれた学年の子(合う合わないはあっても、みんなそういうやわらかさをもっていた。とても運がいい。)。

 

そうやってやわらかさにすくわれて、なんとかかんとか中学校を卒業した。

 

高校は、「自分で選んだから」、きちんと行った。

そういう契約を、学校としたのだ、というような認識をするようにして、やっていた。

高校でもやわらかい子や先生に恵まれて、教科によっては「さぼってもいいよ、ただし成績は2」とか許可をもらったり、なんだりかんだり、とにかくなんとかやっていた。

 

それでも、結局はやっぱりいなかの閉鎖的で「ふつうの女の子」が求められるなかで、わたしはとても苦しくて、進学の動機は「勉強が好き」ということのほかに「ここから今すぐ逃げ出したい」だった。

 

あんなによくしてもらった小中高の友人たちと、今はほぼ全員、音信不通だ。

それでもあの子たちが、わたしは好きだ。

救われたと思う。

 

大人になっても、まあ、なんとかかんとか、どん底に落ちたりとか、しながら、なんとかかんとかやっていく。

やっていくからね、大人になると、地元も悪くないと思えて、ちゃんと外を歩けるし、時々笑ってるからね。

 

本当に運が良かっただけなのだけれど、そういうお話。